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迫研山の家「有壇舎」の紹介

 「有埴舎」一見平凡そうに見せて、だんだんと上がってゆく床のつくる空間などなかなか非凡で、かと思えば天井は床と関係なくてだんだん背が立たなくなったりして、大学のグループらしい独得の雰囲気。大学といえばやたら才気走ろうとするどこやらの大学とは違い、家具屋にも紙細工屋にもなろうとせず、時流に超然、ひたすら建築に向かっている。こうした大学研究室のあることを知らせたのは取材の功績です。(林)
                                 『新建築』1984年3月号 月評より抜粋


山の家の誕生〜現在まで                   山の家現会長 中澤克秀(S63年卒)

 1967年「南迫研究室」が開設され、西村健太郎・正木史朗、両氏を中心とした研究室生徒が10年間かけて土地探しをしました。1978年に長野県長門町の町営「学者村」に敷地が決定し、コンペが実施されました。3回に及ぶコンペの末、松井弘孝案が基本案として決定。1981年、建設委員会が正式に発足しました。1982年11月着工、1983年6月に竣工しました。足掛け16年にわたる南迫研究室諸先輩方の尽力により、夢の建築が誕生しました。1993年9月に「10周年祭」が現地で盛大におこなわれ、現在に至ります。詳細は、年譜をご覧下さい。
15周年では、アプローチと駐車場が整備され、2004年春には軒天井、屋根、煙突の大修理が完了しました。

 本会は、南迫研究室OBを中心とした会員制の会であり、現在60名ほどの会員がいます。2004年9月、山の家は南迫研究室OB会と融合し、大きく生まれ変わろうとしています。
生まれ変わった山の家を今後も変わらずに愛し、かわいがってください。

 OBの方で、山の家の存在を知らなかった方は、この機会に是非その成り立ちと現状を知っていただき、応援、利用していただけるように、お願いいたします。
                                      


山の家ができるまで 「生みの苦しみ育てる喜び」  
                          西村健太郎(S.43年卒)「故 2004年04月享年60歳」

 大学を卒業して1年が過ぎた夏、南迫先生に連れられ蓼科に遊びにいったことが、私を山小屋づくりにと駆り立てることになった。それは今は亡き武藤章先生の設計による蓼科山荘であった。その山荘はとてもシンプルな平面と、豊かな空間の広がりがまわりの自然と優しく融合、寄棟屋根の美しい建築であった。それは私が建築にふれて初めて体験する新鮮な感動であった。その後、南迫先生の設計の手伝いをしながらも山小屋づくりの夢は燃えつづけ、南迫研究室に正木君、そして石尾君が加わった昭和47年頃から山小屋づくりの活動が本格化していった。その時はまだ後に経験する生みの苦しみを知ることもなく、若かった我々はただひたすら夢を追いかけていった。

 初めは山より海の近くがいいと、伊豆の下田や土肥の方へ出かけてみたが、我々の条件を満足させる場所は見つからず、しかたなく海はあきらめ山に眼を向けることになった。利用率のことを考え東京から遠くない青梅にも行ってみたが、残念ながら決めるまでには至らず、この後場所探しに数年を費やすことになった。

 学者村に決まったのは、私が大学を卒業して10年が経過した時だ。基本案はコンペによって松井弘孝案を選び、毎週1回研究室に集まり実施設計を進めていった。週1回の会合を重ねる毎に設計密度は濃くなり、質は高められ、実現に向って山の家の夢は実現味を帯びてきた。共同設計を通し連帯意識も生れ、設計作業も順調な滑り出しの様に思えたが、建築資金が思う様に集まらず、資金集めは暗礁に乗り上げ、頭を悩ませることとなった。一時は「やめようか」という声も出る状況に追い込まれ、迫研OB会としての山小屋はあきらめ、資金を出せる10名ぐらいの有志で建てようかと、真剣に考えたこともあった。そんな時、南迫先生に「迫研OB全員の参加でなければ山小屋をつくる意味がない」と叱咤され、気を取り直し再び会員呼び掛けの運動は根気よく続けられた。

 2年余りの後、設計もまとまり地元の翠川工務店に工事を依頼するところまで漕ぎ着けた。しかしどうやっても600万円が不足。無理を承知で工務店に立替えをお願いした。我々の山小屋に賭ける情熱と意気込みを汲んで快く承諾され、57年の秋工事着工の運びとなった。翌年2月上棟、58年6月半ば、待ちに待った迫研山の家は遂に完成した。スタートしてから10年、多くの会員の努力によって、念願の迫研山の家がカラ松林の中に美しい姿を見せてくれた。この10年間の山小屋づくりにおいて、計り知れない多くのことを学んだ。南迫先生のあの叱咤がなければ、どうなっていたかわからない。

 迫研にはいいやつ、いい仲間が集まった。そんな中でも特に正木君はいいやつだった。後輩の面倒見がよくみんなに慕われ、自分の仕事は二の次と、土地入手、設計、業者選定、資金調達と東奔西走し、人一倍山小屋づくりに情熱を傾け、みんなを引っ張っていった。本来であればこの原稿を書くのは彼をおいて他にいない。いろんな苦労話しや、楽しかったことを、彼なら書いてくれたと思う。残念でならない。彼がこの世を去って早や1年。本当に我々は良き友を失ってしまった。

 振り返ってみると、山小屋づくりに夢中だったあの頃が、私にとっては一番充実していたように思う。今、若い会員の参加により山の家の運営が引き継がれ、迫研OBの交流がより深く、益々活発に発展していくことを願って止まない。

       (こちらは10周年記念誌に西村氏が寄稿した文章を載せさせていただいています。)


「時.  S.61年6月5日」有壇舎ノートより          
松井弘孝(S.51年卒)

 昨日は軽井沢高輪美術館と田崎美術館見学の後、舎に戻る。夜6:30頃 大竹、石井らが帰る。

 暖炉に火を入れウイスキーを飲む。炎を見ていると時の経つのも忘れる。特に何かを考えるでもなく黙っているのに退屈しない。退屈しのぎと思って買ったカセットテープの音がだんだん耳についてくる。暖炉はやはり良い。

 酔いも手伝い舎が思った以上(失礼!)に素晴らしく思え悪乗りして二晩一人で泊ることにした。照明器具のスイッチを付けたり消したりしながら暖炉の前に座る。それぞれに趣があり楽しい。

 西村さんだったろうか?スポットライトにして天井面を明るくしようと言ったのは。腰壁の照明器具は思ったほど居間側を明るくはしないけど、(私の担当)見るに見かねて居間のソファにも照明器具を入れたのだろう。この照明だけでカップルが炎とお互いを見つめるなんて楽しいに違いない。ポクと藤田にはそんな機会があるのだろうか。おそらくないに違いない。

 散室の窓を内側に引っ込めると言ったのは石尾さんだったろうか。窓の上を垂れ壁にするかあけるかとかもあったな。天井の目地をタテに通すかヨコに通すか、柱の背割れ、枠廻り、巾木と壁とのチリ、散室の一段目を居間側に広げる事、台所廻りはまかせろと言った正木さん。これらの事が全てうまくいっているので感心してしまう。

 嬉しくて何度も下へ行ったり、また戻って散室の上まで行ってまた戻り、さらに暖炉の回りをぐるぐる回ってしまう。45°の階段も全然苦にならないし、玄関だって小さいのがかえって効果的(さすが石尾さん)舎の各部について色々な意見が出され時には行き詰まったことが懐かしい。ボクにはわからなかった床伏図担当の後藤君、食卓の図面を書いた松木君(3年経ってもビクともしない)菅原は何を書いたのだろう。

 ともあれ居間の腰壁、内側に寄せた4本の柱、暖炉、食卓、台所の打放し壁、散室、内側に引っ込んだ窓、そのどれもがなるべくしてなったように見事な構成となっている。さらに各部の高さ関係、すごいなあ。仮にそのどれかを取るなり変えてしまうとつまらなくなるような気がする。(あたりまえか?)

 本当に見に来てよかった。建築の楽しみを知らされた。図面ではやはりわからない部分があるものだ。

       (こちらは松井氏が有壇舎ノートに書き記した文章を載せさせていただいています。)


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